海溝

覚書とか忘れたいこととか

三日月になりたくなかった

チャットモンチーというバンドをご存知だろうか。

半年くらい前に解散して、結構色んな方面で話題にもなったバンドなので、ご存知なのを前提に話をしていきたい。

 

私が彼女らの存在を知ったのは高校1年生の冬頃だったと思う。

その頃の私と言えば、毎月欠かさずロッキンオンジャパンを購入し、通学電車の中で隅から隅まで読み耽り、帰りは駅前のタワーレコードに寄って働き蜂の如くあっちの試聴機へ、今度はこっちの試聴機へと店内をふらふら漂う暇な田舎のサブカル風吹かせる可哀想な女子高生だったので、いつチャットモンチーチャットモンチーとして認識したかは実の所はあまり覚えていない。

でも、1stが出た位の時に《ハナノユメ》を聴いて「この歌詞に出てくる女マジやべえ」と思ったような、そんな気がするのでほんとにリアルタイムなチャットモンチー世代だったんだと思われる。

 

この多感な女子高生だった頃にチャットモンチーの世界に触れるというのは多分重要なことであり、女として生まれて生きてきて、思春期にチャットモンチー接触したかしていないかでその後の人生は大きく変わってくる説を私は提唱したくて堪らないが、今日はしません。

 

さて、先程も述べたとおり、女子高生だった私はチャットモンチーの音楽を聴いて「この歌詞に出てくる女マジやべえ」的なことを思ってしまったので、ファーストインプレッションとしてはあまり宜しくなかった部類に入ると思う。

いい意味での「やべえ」ではなく、自分には到底理解出来ないものを見聞きした時に抱く方の「やべえ」という感情であったと、当時の私の人間関係や人生観から推測することは容易である。

だが、女子高生だった私はチャットモンチーを「やべえ」で片付けるのではなく、聴き続けた。

1stのハズカムを聴いて、あー2nd出たんやねーとか言いながら今は亡き岡山駅前のOPAにあったタワレコで耳鳴りを購入し、えーもう3rd出てる!とか言いながら同様にタワレコで生命力を買って、今のiPhoneくらいのサイズだった昔のiPodに入れて通学電車の中で聴いていた。

当時の私に何が刺さったのか。

推測するに、多分彼女たちが奏でるゴリゴリに太いサウンドだと思われる。

この辺は今もよくわからんのでちょっと割愛しますね。

 

ハズカム→耳鳴り→生命力ときて、私の中でのチャットモンチー歴は1度ストップする。

きっかけは女子高生を卒業して上京し、環境が変わったからであろう。

一人暮らしは何かとお金が掛かるし、東京には誘惑は沢山あるし、音楽にばっかり金をかけていられない。そう思ったから、なんかよーわからんけど好きかも、的な存在だったチャットモンチーは私の中から知らないうちに切られたのだ。

 

じゃあその後どこで再会したかというと、これは何故かハッキリ覚えていて、ノイタミナでやっていた海月姫のOPであった《ここだけの話 》を聴いた時である。

ご無沙汰であったため、心持としては初めましてくらいのテンションだったのだが、《ハナノユメ》を聴いたときのような「なんやこれ」感はなく、すっと心の中にえっちゃんの声と歌詞とサウンドが入ってきた。

だが、それが共感に似た類の感情であったと気づいたのは、今年に入ってからくらいの事かもしれない。

解散するよ、というニュースを見て、Twitterの人たちがチャットモンチーに共感していたと各々の言葉を用いて呟くのを見たのがきっかけだった。

 

【「この音楽が好き」という感情を抱くのに、共感は必要か否か。】

これは恐らく、その人の生き方や価値観、あとはアーティストの音楽性によるものが大きいと考える。

すごい偏見だけど、西野カナちゃんを崇拝する系の女の子はきっと西野カナちゃんの曲の歌詞に共感をしてるから好きなのであって、「西野カナの曲に出てくる女の気持ちはよくわからんけど、声とサウンドが好みだから聴いてる」っていう人はほぼ居ないと思う。

逆に、いや他でもない私がそうなんだけど、英語よくわかんないけどフランツフェルディナンドの曲を聴くとチョーハッピー!になれる人ってのは日本人の中にはある一定数存在するはずだ。むしろ居てくれないと私が困ります。恥ずかしくて。

チャットモンチーはドロっとした女の心を描写するのがじょうずだけど、同時にバンドサウンドもイケイケでかっちょいい。

だから、西野カナタイプの人もフランツフェルディナンドタイプの人も混在するんじゃないかと思う。

また、前者だったけど年を重ねるうちに後者になったよ、っていう私みたいな例も、あったんじゃないかなって。

好きだったものが年を重ねるうちに嫌いになる事もあるけれど、嫌いだったものが好きになる事もある。

今好きなものが、人が、死ぬまで好きだとは限らないし、今嫌いな人が明日すごく好きな人に変わってるという可能性も0.000001%くらいの確率であると思う。

そのきっかけが何かはわからないけど、どっかで気持ちを切り替えるスイッチが入ったり切れたりするんだろう。

そう考えると人の気持ちなんて物はホント信用ならねえな、なんて風に思うわけです。私は。

 

と、まあそんなとっ散らかったことを、今日仕事の帰りにiTunesをシャッフルしたら再生されたチャットモンチーの《三日月》を聴き、うわー懐かしーと思いながらふと見上げた空に肥りかけの月(残念ながらミカヅキではなかった)が浮かんでいるのを見てもくもく考えたので書きました。

女子高生だった私は三日月になりたくはなかったけど、30代が見えてきた今ならその気持ちがなんとなくわかるような気がしますよ、えっちゃん。

「この歌詞に出てくる女マジやべえ」なんて思ってた私がこんな風にすました顔でぽろっと言えてしまうあたり、私の気持ちも相当信用ならねえものなのですよね。